啓示と注釈は各々誰が言ったもので、どう違うのか?
使徒パウロは律法と世の知識を捨てて、イエス様から頂いたまぼろしと啓示を伝えた(II コリ12:1、カラ1:8-12)。啓示は神様が聖書に封じられた御言葉を、時になって開き、選んだ者に見せて、食べさせ、また、その御言葉を神様が定められた所に行って宣べ伝えるように指示された。
旧約の封じられた黙示(イザ29:9-13、ハバ2:2-3、エゼ1、2、3章)は、定められた時になり、神様が人の子、即ちイエス様に開き、見せて、食べさせて(マタ11:27)、イエス様は聖書に預言されたその場所に行かれ宣べ伝えられた(マタ15:24)。新約の封じられた本、啓示録(啓5:1-6)はイエス様が開かれ(啓6、8章)、選んだ牧者に見せ、食べさせ、民族、国民、国語、王たちに伝えるよう指示された(啓10章、啓1:2)。そして、この選ばれた牧者はその指示された所に行き、啓示の御言葉を伝えるようになる。これは神様が聖書の封じられた本を、神様が時になって、開き、選んだ者に渡して、伝えさせた啓示である。この啓示を受ける者だけが神様と、その送られた方を知り、また、まことの神様と、その送られた方を知らなければ永遠のいのちを得ることはない(マタ11:27、ヨハ17:3)。
注釈にはカルバンが研究した注釈があって、その他にも神学博士たちが研究した注釈が多くある(参考、エゼ13:1-3)。この注釈は各々研究、解説した牧者や博士によってその説明が違う。まことの意味はただ一つだけであるのに、博士たちが解説したものの中、どれを信じるべきなのか?かえって、聖徒たちはこんがらがってしまう。
カルバンは啓示録に関しては言及もせず、牧者と博士たちは啓示録について様々な恣意的意見を語った。注釈の言葉が天の啓示ではない人の間違った解説だとしたら、これは毒麦を蒔いたことになって、人が木であるとしたら、この人は善悪の木となる。そして、善悪の木である牧者から出た言葉がその実である。この木が酸いぶどうの木だとしたら、その木の上に座っている鳥は悪霊で、その木である牧者は悪霊の花嫁となり、その悪霊(花婿)から与えられる花嫁の解説は不品行のぶどう酒となる。この不品行のぶどう酒を飲む者ごとに皆悪魔の子となり、その霊は死ぬ。神様の本、啓示は一冊だけであり、ただ一人の牧者だけに渡して宣べ伝えるようにする(啓1:2、10章、22:16)。啓示なのか、注釈なのか!聖徒は判断しなければならない。
新天地イエス教(以下、新天地と略する)にいた申某氏は権威的欲望に駆られ(ヤコ1:15)、新天地総会長を除いて自分が総会長になろうとへつらう行為をとっていた。彼は新天地総会長の血と肉を食べてのみ救いがあり、総会長(李萬熙)の名で祈らなければ、求めたことを神様が与えられないと説教して、このような内容を総会長に勧めて、拒絶されたあげく、教会内で党を作ってクーデターを起こしている途中で追い出された。新天地は全ての財政関連通帳を新天地イエス教の名にするよう指示していたのに、申某氏は自分の名でしてきた。そして、新天地では聖書と啓示の御言葉で教育と説教をすることになっていて注釈は禁じられていた。しかし、申某氏は注釈で説教してきて、また注釈を学ぶことを勧めてきた。どっちが神様の御こころどおりの信仰であるのか?
新天地から追い出された申某氏は改宗強要で物議を醸した牧者と一つになって注釈の内容でゼミをしている。彼らのぶどう酒を飲んだ者たちが救われるのか?
聖徒は注釈より聖書の御言葉と啓示の御言葉を信じ、守ることで望みにたどりつく。このことのために我が新天地はお祈りする。