宗教と信仰

この説明は聖徒たちの聖書の知識と正しい信仰のための説明と質問です。
 
宗教と信仰は宗教の主人であられる神様の御こころ、教訓を受けて信じ、行うことである。
宗教とは世の教育ではなく、神の教育なので、最高の教育である。これは神の霊感であって、耳のある者は聖霊がいうことを聞くことになる。
 
● 宗教の意味(宗教=+示、孝+父)
宗教は天( 宀 → 宇 すなわち、天)を見て(示)、父に孝行することを教え、学ぶことである。この宗教の主人(教主)は宗教を創られた神様である。人を指して教主という者はその人が異端説(人を異端だとする間違った主張)を言ったことになって、彼自身が異端であると言える。イエス様はご自分のことを道であり、真理であり、命であると言われて、わたしによらないでは父のみもとにいくことはできないと言われた(ヨハ14:6)。御子イエス様は御父に従順され、死に至るまで孝行されました(ヘブ5:8-9)。そして、罪のせいで神様と敵となった私たちの罪をご自分の血(命)で 赦して下さり、神様と私たちが一つになるようにして下さった(エぺ1:7、2:14-16)。イエス様は天の父に孝行な子であり、私たちには命の恩人になった。私たちもイエス様と一つになって、イエス様のように天の父に孝行し、イエス様の血により人類の罪を赦し、彼らが天の父と一つになるようにしなければならない。そして、私たちも道と、真理と、命にならなければならないし、私たちによって彼らが父とイエス様に来るようにしなければならない。
 
世の中には適法と不法があって、問題を起こした犯罪者たちを法によって裁いている。宗教の中にも善であられる神様がおられ、悪であるサタンがいて、サタンが問題を起こしている。彼らは天の法である聖書によって裁かれる(ヨハ12:48、黙20:12)。善なる神様は赦し、愛し、祝福しなさいと仰った(マタ18章)。しかし、悪であるサタンは呪い、嘘をつき、迫害し、批判し、判断し、殺害した(参考、マタ5:10-11、7:1-5、ガラ4:29)。聖書はその実によってその木が分かると言ったので(マタ12:33、ルカ6:44)、インターネットのコミュニティーなど、色々な所にアクセスしてみると誰が聖書的で、誰が不義であるのかが分かるだろう。不義を見て不義であることを言わない者も不義な者である。
 
神様の所属は御言葉(真理)を伝えて、サタンの所属は御言葉は知らないくせに呪う。どちらが聖書で語っている義であるのか?世の中にも法があり、天の国にも法がある(ヘブ8:10、ヨハ12:48)。我が新天地イエス教の国と祭司長である12支派は(黙7章)神様と聖書の法から見るならば、似非、異端ではない正統啓示神学をし、聖書通り信仰する正統である。
 
質問:改新教(プロテスタント)は、その名称(看板)も、教理も、注釈の解説もインターネットのコミュニティーに掲載した誹謗の内容も、彼らの行動をも聖書の御言葉に照らし合わせてみれば、伝統的似非、本当の異端ではないのか?聖書のどこにそのような名称、迫害、呪い、嘘をついてよいと書いてあるのか?
 
新約聖書には勝利者が一人いて、それから彼に学んだ数多くの勝利者たちがいる(黙2-3章、12章、15章)。約束された聖殿も、拝むべき所も、たった一ヶ所であり(黙7章)、創造された12支派が集まる所もただ一ヶ所だけである(黙7章)。収穫されていく所もただ一ヶ所である(黙14章)。今の地上の教会たちはイエス様が種をまかれた畑から収穫されて行った所ではない。その教会の中から穀物のみが収穫されて行くはずである。
 
サタンの群れが正しい信仰から離れて、あらゆる侮辱的、名誉毀損的、けなす言葉と嘘をついて、インターネットのコミュニティーなど色んな所に数千個の文を載せ、新天地を葬り去っている。このような行為はまた立法部で法に定めておき、しないように禁じなければならない。どれだけ多くの嘘が掲載されているのかインターネットに入ってみれば分かるだろう。我が新天地イエス教は最高の真理と正統の啓示神学をしながらも、聖書6千年の働きの中、一番多くの迫害を受けている。それも正しい信仰人ではない、サタンに利する行為をする人たち(反キリスト)により聖書どおり行わない人たちが聖書通り信仰する人を迫害することは今に始まったことではないと思うが、天地の間、このような無法はないと思う。
 
● 偏頗、偏見の行為
キリスト教人はキリストにあって一つである(参考、ローマ12:5)。自分の教団だけのために自分の教団の聖徒でないと言って、偏頗、偏見的な行動で迫害するのはキリストにあって似非の党を作る行為である。キリスト教人を自分の教会に出て来るように改宗するというその話そのものが嘘であり、矛盾である。仏教など他の宗教からキリスト教に移っていくことが改宗であって、キリスト教から他のキリスト教の教会へ移っていくことがどうして改宗なのか?
 
キリスト教の牧者が相手の教会の聖徒たちを自分の教会に来させるために、相手の教会を異端だとぬれぎぬを着せた。そして、その聖徒の親と離間して、その子供を監禁、殴ることによって家庭不和を起こし、その子供を逃げさせたり、家出をさせた。そうしてからは、かえって、その罪を相手の教会に押し付けて迫害することがあった。このようなことに対して偏頗的に放送をしたらその放送は誰のための放送だろうか?
 
我が国(韓国)の宗教界の現実を調べてみよう。髪を刈って、俗世を捨て、山中の仏教のお寺に入って信仰をするならば、これを家出だと言えるだろうか?またカトリックの信者は私家を離れ、天主がいる所、すなわち修道院に行き信仰生活をする。これが家出なのか?世の法も、天の国の法も無視して偏頗的に改宗牧者と一つになった放送局は世と宗教界に対して罪を犯した所ではないだろうか?このことはまるで、敵に同調する利敵行為にたとえられるだろう。
 
真の宗教人は聖霊と聖書の目と耳で見て、聞いて心から判断しなければならない。不法はなくならなければならないし、真の法はあるべきである。新天地イエス教の啓示の解説と地上の牧者たちの注釈的解説とを比較してみて、どちらが真の真理であるのかを悟る者は救われるだろう。
 
聖書どおり創造されて、聖書どおり加減のない信仰をする新天地イエス教に初臨の時にユダヤ人たちがイエス様にしたように、異端だと言っている韓‧基‧総に質問する。
韓‧基‧総は政治的な目的のため、政治家金○さんによって長老教系列の教会に創設されたとキリスト敎言論連合会で明らかにした。では、韓‧基‧総はキリスト敎のための組織ではない世の政治のための韓‧基‧総ではないだろうか?
 
長老教は教会の運営を長老たちの合議制にしようというカルバンの長老主義からなったもので、長老教の英語の名称(Presbyterian)には本来イエス教という意味は入っていない。そうしたら長老教はイエス教ではない似非長老が教主になるのではないだろうか?アダム、エバとソロモンが異邦の神に拝み、仕えたことで(I列11章)、イスラエルの国は滅んだ。長老教が異邦の日本の天皇の神に敬拝してから礼拝をしたので高神派が長老教には救いはないと言い、出てきたと言う。異邦の神に敬拝した長老教に救いはあるだろうか?長老教は人殺しカルバンが創設した教会であると知られている。カルバン教である長老教とイエス教とは違う。イエス教は預言と信仰と実像の宗教であり、カルバン教は絶対予定説が核心教理である。イエス教とカルバン教、どちらが似非異端であるのか?そして、各々その教主は誰なのか?我が新天地イエス教はイエス様が教主であられる。長老教はその原語(英語の名称)から見て、長老が教主だということになる。長老教の教主はカルバンなのか、長老なのか?
 
聖書の預言どおり来て、預言どおり成し遂げ、創造され、信じて行う新天地をなぜ長老教では異端だと言っているのか?長老教はどんな聖書を信じるのか?真に同じ聖書を信じるならば新天地を異端だと言わないだろう。韓‧基‧総の系列の中で、聖書を知っている人はただ一人もいないのか?黙示録にはその本の内容を加減すると天国に行けなく、呪われると記録されている(黙22:18-19)。長老教で黙示録の真の意味を知っている人が一人でもいるのか?
 
新天地イエス教が長老教に異端だという迫害を受けながらも、長老教(韓‧基‧総)と一つになって同じ道を歩まない理由は長老教が聖書どおりイエス様を信じないからである。当時イエス様もユダヤ教から異端だと言われながらも、彼らと一つにならなかった。
 
我が新天地イエス教は黙示録を通達する。昔の選民ユダヤ人たちがイエス様とその弟子たちと先見者たちを異端だと言って殺したのに(参考、マタ23:34-35)、今は聖書を知らなくて聖書の約束どおり創造された新天地イエス教の聖徒を異端だし、殺した。しかし、私たちは神様の御こころどおり、赦し、愛し、祝福して彼らのため祈る。約束の御言葉を悟り、信じて、生まれ変わって、救われることを祈る。