宗教と聖書と信仰

宗教は、唯一神であられる神様が造られたもので、時代毎に地上の人を選ばれて代言者として伝えさせた。そして、その経書である聖書も、神様が人を選ばれて代筆者として記録させた。それ故に、宗教の教主は神様であり、聖書の著者も神様である(Ⅱテモ3:16、ガラ1:11~12、Ⅱペテ1:21、啓1:10~11参考)。人は宗教の教主にも、聖書の著者にもなれない。ただ、代言者、代筆者になれる。
 
 信仰人が聖書の御言葉を聞いて見ることは、神様を見て神様の御言葉を聞いて見ることになる(ヨハ12:44~45、ヨハ14:24参考)。宗教の中では、キリスト教、仏教、儒教などがあって、各宗教には各聖書がある。この中で、キリスト教のイエス様の働きは約2千年になった。ところで、イエス様がこの地上でお産まれになると預言をした時から約3千年になり(詩2編、イザ7:14参考)イエス様の根は約6千年になった。儒教•孔子の働きは約2千5百年、仏教•釈迦の働きは約2千6百年になった。イエス様が来られる以前の旧約の預言者たちの中には、釈迦と孔子より先に来て預言した者たちも多かった。ところで、釈迦も孔子も旧約の預言者たちも、みなこの地に救い主(イエス様)が来られることを預言された。この預言に約束した通りにイエス様が来られたが、モーセ、釈迦、孔子の子孫たちは自分の師であるモーセ、釈迦、孔子だけを信じてイエス様を信じなかった。これは自分の師は信じたが、師の言われたその話は信じなかったのである。師の言われたのは自分たちの経書であり、この経書の言葉は師の言葉ではなく、師が神様(聖霊)の御言葉を代言したのであって、即ち神様の御言葉である。信仰と救いは神様と神様の御言葉にある。
 
 使徒ヨハネは、神様と共におられるイエス様を御言葉と言って、神様の代言者と言った(Ⅰヨハ1:1、2:1)。イエス様は「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきを会うことがなく、死からいのちに移っているのです(ヨハ5:24)。」と言われた。イエス、孔子、釈迦の中で身分を見ると、イエス様は天地創造主神様の御子であるので(マタ3:16~17、ヨハ1:32~34)そのだれと比べることはできない。釈迦、孔子、旧約の預言者たちは、彼らの代言した預言はあるが自分の罪(即ち原罪、遺伝罪、自犯罪)も解決できなかった。イエス様は、根本的に罪のない方であり、万民の罪をお一人で担当された方として、罪の赦しと救いを与えられた方である(ヨハ1:29、へブ9:28参考)。
神様が約束なさった御子イエス様が旧約を成し遂げられて(ヨハ19:30)、将来の事を直接預言なさった。それが新約である。今日は、イエス様が約束なさった新約を成し遂げる時である。そして、キリスト教の経書(聖書)が仏教と儒教の経書より信じる値打ちがあると言える理由は、預言通りに成し遂げられた実像の記録(ヨハ14:29参考)、即ち体験の経書であるためである。体験というのは、私たち信仰人たちに確実な信仰の証拠になれる。
 
 知識には世の知識と天の聖書の知識がある。善行を尽くすとしてもそれだけでは義と認められず、罪が赦されることもない。罪が赦されなくては、いのちであられる神様(聖霊)は共におられない。この世の中の罪人たちに要るものは財産でもなく権勢でもない。これらはすべて一場の夢にすぎない。必要なのはただ神様である。それ故に、神様が共におられる資格、即ち罪の赦しを受けなければならない。罪が赦されるためには、神様が新約聖書に約束なさった牧者に会わなければならない。この約束の牧者に会える道は聖書にあり、聖書の中に入ってこそその方に会うことができ、分かることができる。
 
 罪が赦されなかったら天国も永遠のいのちもなく、罪に対する罰を受けるようになる。全世界の中で約束の牧者を通して啓示と聖書を通達したところは、ひたすら新天地イエス教だけである。ここの聖徒たちは新しい契約を守って(へブ8:10~13参考)、歩く聖書になった。彼らは迫害より愛を行って、恣意的な言葉より天の啓示を信じて実践する者たちであり、また、天から認められて万民がもとめられる本当の信仰人として、一点一画の加減のない御言葉と公義公道を行う12支派の精通した者たちである(啓5:9~10、啓7章参考)。