現世とあの世

現世は現在の世界のことを言い、あの世は肉体が死んだ後の死後の世界のことを言う。成し遂げられる世界は、霊の世界が世の中、すなわち肉の世界に臨んで共に生きる世界である(黙21章参考)。
死後の世界は、霊の世界である。霊の世界には、二種類がある。一つは創造の根本である神様の世界(天国)であり(エゼ1章、エゼ10章、黙4章)、もう一つは罪を犯した霊の世界(地獄)である(イザ14:12~15、エゼ28章、Ⅱペテ2:4参考)。
自分の肉体が死んで肉体から離れた霊は、死後の世界に行ったわけではなく、審判の時まで中天に留まっているようになる。生きている者の肉体に対する審判は、一つの時代が終わって、新しい時代のまことの牧者と神様の霊が一つになってするようになり(ヨハ5:22~30、黙2:26~27)、肉が死んだ霊の審判は、黙示録20章に書かれている千年後にあるようになる。人(肉)それぞれには霊(地の霊)があって、天にも霊がいる。天地(霊と肉)が一つになる時、天の霊が地の霊を選んで一つになる(結婚:Ⅰテサ4:13~17、Ⅰコリ15:35~54、黙20:4~6)。悪霊は悪い人、聖霊は良い人を選んで一つになる時、その肉体は結婚した霊の家となる(Ⅰコリ3:9、黙18章、黙19章参考)
人は死ぬと自分の体が死んだことを感じることができず、またこの世の人と話すこともできず、感覚もない。ところが死んだ肉体から離れた霊の姿は、生きていた時の自分の肉体の姿そのままであって、生きて見ていた世界をそのまま見ることができて、感じる。これは人が寝ている時、夢の中で自分が自分を見た時、同じ姿であることと、また自分が歩く姿を見ることと同じである。夢では飛び回ることもできるし、自分が死んでまた生き返ることも見るようになる。これが、肉体が死んだ者の霊の姿である。しかし、生きている肉体は、死を経験したことがないから死後の自分の霊の姿について知ることができない。しかし、自分の体から離れた霊が自分の体が朽ちる前に、再び自分の体に戻ってくると、その体で生きるようになる。この人は、死後の自分の霊の姿を知るようになる。
黙示録20章までの千年の世界が過ぎた後、肉が死んだ霊たちは、その誰であろうとも神様の御座の前の聖なる霊にさばかれるようになる(黙20:12)。この時、霊たちは生きていた間の自分の行いに従って書物、すなわち聖書の御言葉によってさばかれるようになって、義を行った者は楽園の世界、天国に、不義を行った者は地獄の硫黄の火の池で永遠に苦難の罰を受けるようになる(黙20:4~6、10、黙22:1~5参考)。
自分自身の行いを知らず、一瞬の不正が永遠の苦難へと続く。信仰は、深思熟考しなければならないし、良い正しい信仰と行いをしてこそ、その日に救われるようになる。その理由は、私たちが行って生きる所が聖なる天国であり、聖なる神様と共に生きる所だからである。
新天地の啓示信仰のことを呪って、異端であると言う者こそが異端であり、不義を行った者であって、偽りを言う者である。新天地は、世界民族の中で神様の国と祭司長であり、聖なる天民である(黙7章、14章)。この事を悟る者は、新約聖書の約束を悟って信じた者たちである。誰でもイエス・キリストの啓示(黙1:1~3)を受けられなければ、神様も、イエス様も、保恵師(助け主)も、天国も、神様の国と祭司長も知ることができない。