本文:Ⅰテサ4:17
参考聖句:出19:4、マタ16:28、マタ17:1~5、マタ24:15~17、黙14:1~5
ルカ17:22~24、ヨハ16:8~11、ヨハ14:26、マコ12:24,27
前もって知らなければいけないことは、新約聖書には理解しがたい語句(聖句)と、秘事と比喩でたとえられた語句がある。
空中の雲の中で主に会うという事(Ⅰテサ4:17)は、霊的シオン山(黙14章)で再臨の主を迎えることを話しているのである。主は霊で来られて、主を迎える聖徒は肉なので、主を肉眼で見ることはできず、また聖徒たちが空中に上ることもできない。イエス様も使徒ヨハネも天に上れたのは、御霊に感じて上ったのである(ヨハ3:13、黙4章)。パウロは、四福音書でイエス様が言われた御言葉(マタ24:30、マコ13:26、ルカ21:27参考)を基準にして話したのであり、世の中の地上での考えと天の考えとの差について話したのである。
イエス様は、七十人を立てて、彼らに「ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい」と言われ(ルカ10章)、あなたがたは、世のものではないと言い(ヨハ15:19)、パウロは、私たちの国籍は天にあると言われた(ピリ3:20)。そうならば、世の中の地から神様のおられる所に行くことが、すなわち天へ入ることになる。イエス様は、ペテロとその兄弟アンデレに、「人間をとる漁師にしてあげよう」と言われたので(マタ4:18~20)、海から魚を釣り上げること(マタ13:47~48参考)が、すなわち持ち上げられることになって、船の主人、すなわち主と共にいることになる。
また、イエス様は、「ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」と言われ(マタ16:28)、六日後、三人の弟子と高い山(変化の山)に上って行かれ、再臨の時の姿を見せたので、そこが山であり、雲の中であった(マタ17:1~5)。出エジプト記19章4節では、神様が「エジプトにいる大勢の選民を(徒步の壯年の男子だけで約六十万人:出12:37)わしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来た事をあなたがた(イスラエルの子孫)は見た」と言われた。本当にその時、わしが翼に載せて連れて来たのだろうか。わしは、黙示録4章の四つの生き物のうちの一つであり、四つの生き物は霊である。わしの翼に載せて連れて来たという事は、御使いたちが共にいて、イスラエルの民たちをエジプトから救い出し、神様に導いたということである。
では、雲の中へと引き上げられ、空中にいるということは、どんな意味は何か?
これは、エゼキエル3:12~15でのように、肉が持ち上げられるわけではなく、霊が持ち上げられて行くことを意味する。四つの生き物が見えない(雲の中)死んだ霊と肉体を持った者の霊を、まずヨハネのように(啓4章)御霊の感動によって引き上げて、私たち肉体まで霊的シオン山に行って、共にいることを意味する。もし、私たちの肉体が実際に天に上るのなら、イエス様も使徒ヨハネもそうしなければいけなかったし、四福音書に「主を見ることはできない」という御言葉も(マタ23:39、ルカ13:35、ヨハ16:8~10) 話す必要はないし、また主の御名によって来られる保恵師(助け主)である真理の聖霊は何の働きもないであろう。そして、サタンの群れと戦って勝利する必要もないし、婚姻の宴も必要ないのであり、12部族14万4千人と白い衣を着た大ぜいの群れも、シオン山も必要ないのである。
肉的イスラエルを太陽、月、星(創37:9~11参考)だと言ったように、パウロは、選ばれた霊的新しいイスラエル12部族が神様とイエス様と四つの生き物と24人の長老と共にいる所(啓7章、啓14:1~5)、すなわち太陽、月、星の居所を空中(天)だと言ったのである(黙15章参考)。